横浜工場見学・・・そして崎陽軒物語・前編

美味しいシウマイ、崎陽軒~♪ 2017年8月よりシウマイの製造ラインだけでなくシウマイ弁当のラインも見学出来るようになったため、それじゃあ、歴史ある崎陽軒さんの工場を見学しようという事で、日本中国料理協会サービス技能支部で工場見学~となりました!

見学の時に提供されるシウマイとパイナップルの焼菓子、そしてシウマイ弁当には欠かせないタケノコ煮込みが、ひょうちゃん皿で登場~♪

港北インター、第三京浜が通る小机大橋北側の袂、「シウマイの崎陽軒横浜工場」!!

実は勝手に勘違いしており、新横浜に余裕で到着~と思っていたら...「おーシラト!」と杉山先輩。「オハヨーございマース、このバスでいいんですよネ~」「・・・ウン、俺もこれでいいと思ってたら、次出るのは後30分位あるぜ」「えー...じゃあ、遅刻になりますね...タクシーで行きますか」という事でなんなく到着。おー続々と登場の皆様オハヨーございマス、それじゃ早速ですがいきましょう!

工場入り口には売店、そして一階にはプチミュージアムがありマース♪

さて、工場見学は2グループに分かれてコースとなるようデス。定員イッパイで締め切りましたからね。見学の説明も終わり、それでは出発~(^_-)-☆

・・・いや、やめとこう、女房はいないからネ。だって、俺はこういうのがあると無性に顔出して写さないと気が済まないんだ~、誰か撮ってくれ~・・・って・・・いや、やはりやめとこう...。


はい、それでは崎陽軒さんの歴史とシューマイ...ではなく「シウマイ」の製造工程を動画で見ました。撮っちゃおうかナァ~って思ったんですが、撮影はNGなのでまずは歴史からご説明しましょう!!

さて崎陽軒さん、国鉄職員である久保久行氏は最初の横浜駅(現桜木町・野毛)4代目駅長として定年したが、退職後の生活には無頓着だったため、後輩で後に東京駅駅長となる高橋善一氏から横浜駅構内の売店の権利をススメられ、妻であるコトさんの名義で1908・明治41年に得る...あ、国鉄ではなく日本鉄道という私鉄が運営となるのですか。国有鉄道となるのはもっと後なんですね~。鉄道業界では名物男、気性のサッパリした親分肌で面倒見の良かった久保氏だが、商売というのはした事がない。その点も心得ていた高橋氏は大阪で現在でも営業している明治21年創業で120年の老舗、仕出し弁当の「水了軒」の創業者である松塚孫三郎氏に相談。大阪構内で「水あめを了(う)る軒(みせ)」としてスタートし、その後関西では山陽、南海、阪急などの鉄道、さらに東海道線までも構内販売をしている実績があるので、運営協力をお願いしたそうだ。さて名前はどうするとなり、高橋氏と松塚氏が相談。久保氏の出身は長崎。日本では正式に唯一の開港場であり、外国人からは「太陽の当たる素晴らしい岬」と呼ばれており、その美称が「崎陽」だったのでコレを屋号としてはどうだろうとなり創業となるのデース。当初はサイダーや牛乳、餅などの販売だけで弁当や名物シウマイはまだ登場しません。また、久保家には子供がいなかったため、東京の小川金平、行(イク)夫婦の娘である千代さんを養女として迎えていた。なるほどネ~、あれ?、でも創業社長は野並さんじゃなかったっけ~?

はい、ココで登場するのが渡辺茂吉青年なのデス。栃木県、現在の鹿沼市出身で宇都宮藩戸田家に仕えた由緒ある家柄だったのですが、父富三氏の代にはすでに家財はなく、農業で生計を立てており、少年時代は大変苦労をされていたそうです。12歳で宇都宮の和菓子店で4年間の丁稚奉公、「都会に出て...」決意を胸にして、17歳で上京しタバコ関連の仕事をしていたが、横浜で新聞社に勤務しながら電話セールス、港湾労働者、屋台の豆餅売り、薬剤師見習い...いろいろな仕事を転々と...そして駅弁売りという天職に出会う。両の手にはヤカンと岡持でホームを駆け巡る仕事。「銀月」そして「東洋軒」の経営者は片岡銀次郎氏。その後、神戸の東松軒、そして大阪でついに松塚孫三郎氏の「水了軒」で経理手腕を買われ、東京支社の次席に抜擢だけでなく、横浜の久保さん家の婿養子にならないかという話が舞い込むのだ...わかります?...そうデス、崎陽軒の経営者で名義人は久保久行氏の奥様、コトさんの養女である千代さんと縁談となるのデス...って、野並さんじゃないの~...それには事情があったのデス。久保コトさんの旧姓は「野並」さんで、長女が久保家に嫁いで後継ぎ問題が勃発。ココで、野波家を引き継ぐ事となるのデース...でもさ、久保家に子がなく養女で婿を迎えるのは既定路線...が、その妻の家を継ぐという転回...中々ネ...事情があるのでしょうナァ~。ま、それにしてもスゲェ~な、ここまで詳細にストーリーを動画で...あ、そうですネ、さすがにそこまではネ~。この内容は二代目の自伝にイロイロ書かれてあったので、つい、ついネ...(^_^;)V

         そういう訳で...あ、工場見学のビデオでした。

シウマイと崎陽軒、そして小説から映画でシウマイ娘、ひょうちゃん、というのをザーっと見て、次なる場所へ移動するのデース<(_ _)>

『ひょうちゃんロード』! ヒョウタン型の醤油差しはシウマイ弁当には不可欠デス。当初はヒョウタン型というのを売りにして、中々好調な感じだった所に『ふくちゃん』で高名な漫画家の故横山隆一先生が「ウ~ん...目鼻をつけてあげるヨ!」と顏を描いてくれました。ヒョウタンだから『ひょうちゃん』なのデース!


1988・昭和63年に80周年を記念して、デザイン変更となり『オサムグッズ』で一世を風靡したイラストレーター、原田治氏の「ひょうちゃん」が登場!


そして三代目はフクちゃんに戻って、期間限定品には...まぁ、いろいろとお考えになるのデスなぁ~! 著作権とかあるからかなぁ~、工場内では固有名詞は出て来ないようでした。コラボ企画とかネ、在ってもいいと思うのですが...まぁ、いいか(^_-)-☆

 

さて、この先にあるのは“シウマイを箱に詰める”という作業現場...箱詰めとなると折詰になるので、弁当ではないのかな? 弁当とは主食を重視した事...!?...ハァ~、携帯した食料で“食事”に相当するモノ...じゃあシウマイだけの場合、俺的には“折詰”なんだけど...ヘェ~、折詰とは折箱に詰められた食品なの! ...ってぇ~事は弁当と折詰は同義なんだネ~...あ、ハイハイ、それではどうぞ~って画像撮ってはいけない区域なので、とりあえず見て来ました~!!

さて、シューマイとの、ではなくて“シウマイ”との出会い、それを語るにはには渡辺茂吉青年が「野並茂吉」創業者になるトコからの解説となる。

久保夫妻の養女である24歳の千代さんと26歳になる茂吉青年。この頃は鉄道網の再整備が行われており、現在の桜木町が初代の横浜駅だったが東海道線の急行列車が市街地から離れていて、当時の平沼駅にあって不便だったので高島町に設ける事となった。その結果、ファーストの横浜駅は桜木町となり平沼駅は廃止となる。困ったのは平沼駅関連で仕事をしていた方々で、この場合は駅構内の権利についてイロイロな諸事情が勃発。天職の弁当売りとの出会いとなった片岡銀次郎の東洋軒、さらに新規参入となる東京電方通信社の内田氏が雑貨販売、そして崎陽軒の三社から申し出となり、移転の管理をしていた鉄道院当局は「三社でおやりなさい」となった時、大正二年・1913年に晴れて夫婦となる。渡辺青年は久保という青年に...なるハズなのだが、上部に前記したように『野並茂吉』が誕生する!

 

そして二年後、二代目横浜駅完成。三社合意で匿名組合崎陽軒がスタート。野並茂吉青年は初代の支配人となり...と言っても寿司職人一人雇用の零細企業なので、野並支配人は積極的に現場を手伝う。売り子は当然、厨房で卵を焼いたり、鉄道関係の部署に営業周りをしたりと、崎陽軒を軌道に乗せるため一生懸命働くのダ~(^_-)-☆

経営者として野並氏は企業の体質改善に臨み、匿名会社から合名会社として法人化し、順風満帆だった...がココで未曽有の悲劇、関東大震災により店や家は灰燼に帰す...が、35歳の代表社員としての責任、意地、そして使命感がこの男を突き動かす。カレーライスを横浜駅で売り出したのは震災から10日後、この背景にはこれまでの縁ある人々の支援があってこそ、だった。そして三年後、以前より立派な建物で崎陽軒は再出発するのだ!

 

そして昭和に入り、さらなる飛躍となる『シウマイ』登場でーす(^_-)-☆

「崎陽軒の目玉となる、横浜の名物ってなんだ!」...出来上がっているモノに上乗せする利益はたかが知れている...「それは何なんだ...。」・・・しっかりとした利益を取れるのは自社製品の確立...『それを売りたい!!』

 

茂吉代表は震災後の借金と闘いながら、目を皿のようにして、耳を研ぎ澄ませながら、ただただジーッと模索している。「欲しい情報、横浜名物になる食べ物」、それのみに集中した。野毛、伊勢佐木町、そして山手...電気・水道・ガスという近代ライフラインが普及し、食用油が一般家庭にも広まる。明治から始まった肉食が定番化して、洋食が賑わいを見せるも震災の影響は膨大で復興してはいるが中々...お、居留地と言われた山下町では「支那料理」が熱い。震災によって、当時は外国人街といわれていたコノ地のメインであった欧米人は帰国してしまう。廃墟と化す山下町は、やがて中国人達の街、南京町として徐々に浸透し始めていく。そのメインとなるのは飲食店で、安くてボリュームがあり、旨い料理を出す事。『腹を満たしたい!』、この思いは当時の切実たる共通願望。しかし、中華料理の良さは熱さに在る!・・・崎陽軒で扱うアイテムとしては熱い状況で提供する事は不可能だよナァ~、弁当なんてまさに、無理。まぁ、東京まで30分位しかないのにそんなの買わないジャン。主食だよ、弁当は...いや、まてよ。旨いモノは熱くなければいけないのか...主食ではなく副食、もしくはお土産かなぁ~。茂吉代表は、自問自答を繰り返しながら南京町に通う日々は続く...そして続くのは『縁』。

 

震災後から現在の中華街が始まる。ほぼ全ての建造物は倒壊で瓦礫の山となる街。5000人いた中国人は200人まで減少となるが、中華民国となる新生中国では様々な問題が勃発しており、帰国した人々や残った人達の関係者から「ココにいるよりは日本の方が...」という認識は芽生える。そして昭和初期には3000人にまで回復するのだ。日本の状況と中国の国内事情という背景が、外国人街から支那街、南京町、その後に中華街と呼ばれる土壌にあるのだ。

故郷からの脱出、そして集まる中国の人々...特化した街の主役の一分野は料理人。一例を上げると「銀座アスター」。創業は昭和元年で料理長は張汝深氏、あの聘珍楼の創業店で料理長をしていた人物。明治生まれの大正から昭和にかけての文豪、獅子文六氏のエッセーや銀座アスター社史に出てくる人物で、2017年6月に閉店した名店『海員閣』の初代シェフ(創業者は奥様)なのだ。つまり、一流と呼ばれる料理人がコノ街にいる...そんな事は知りもしない野並茂吉氏はそれでもココに引き付けられるのだ。そして『縁』、“コレならば!!”...。

焼売との出会い、しゅうまい、シウマイへと続く『縁』。この当時のシューマイは定食の突き出し、今でいう小皿的として、出ていた。

“コレならば!!”、と野並茂吉代表は横浜名物としてターゲットを絞る。後に現代も横浜中華街の名店、老舗として名高い順海閣の創業オーナーシェフである『呉 笑安/ゴ ショウアン』氏と出会い、崎陽軒に招聘するのだ!!!

 

続く~(^_-)-☆

 

白土さ~ン家の、日々

行き当たりばったりで、日常の事を好き勝手に綴りマース(^_-)-☆