横浜工場見学~、そして崎陽軒物語・後編~♪

美味しいシウマイ、崎陽軒~♪ 後編~(^_-)-☆

さて、2015年から始まった崎陽軒工場見学。2017年8月のリニューアルで、新たに加わった弁当の作業工程を見学。オートメーションと人の手によるコラボは、逆に最先端って感じデス。

製造ラインは撮影禁止なので画像は公式ページより。規則正しく動き続ける各種マシンに負けず、まさに職人芸ともいうべき手捌きは熟練の技ですナァ~!!

そして主力商品である「シウマイ」との遭遇は、外国人街と呼ばれた元居留地は関東大震災により欧米人から中国人へと主役はシフト、支那街とか南京町と呼ばれていた現代の中華街であった。そして当時新入社員であった創業者の久保久行氏のお孫さんであり、後に代表社員となる久保健氏と一緒に食べ歩きしまくり、支那料理をターゲットとして絞り込む。昭和2年(1927年)久保氏は点心職人である「呉 遇孫/ゴ クウソン」氏をスカウトして三人での試行錯誤、一年間も費やしての研究開発でついに昭和3年『冷めても美味しい、そして小ぶりで電車内でも食べやすいシウマイ』が誕生するのだ!!

★ 順海閣 http://www.junkaikaku.co.jp/junkaikaku-history/

こうして生まれた折り詰めの「シウマイ」は即座に大人気...という訳ではなく、一日に10折ほどしか売れず、「野並の道楽」と揶揄されていたそうだ。「一度食べればまた食べたくなるはずだ」と強い意思を持つの野並代表は引換券を配る事を思いつき、それも飛行機を使って空から配るという事までするのだ。そしてその労はやがて報いられて数年後には一日1000折体制となり、横浜名物としての知名度は上昇を続けていくのだ。

さて、ココでシウマイというよりはシューマイなのだが、横浜南京町で「どの店突き出しとして出ていた」と語っているように崎陽軒がシューマイを開発したワケではなく、すでに横浜南京町には普通にあったという事。んじゃあドコが始めたの?となり、そこで登場するのが「博雅」となる。ちなみに「シウマイ」とは野並氏が栃木出身でシューマイが訛ってシウマイと発音するのと、中国語でシャオマイというのがシウマイと聞こえるのでとの事。ま、博雅でもシウマイとして商品をだしているが...(^_-)-v

『博雅亭』について触れておこう。創業者の鮑棠(ポウタオ)氏は最も早い時期に孫文氏の同志として活動した人物であるといわれ、明治2年(1979年)に来日、12年後に横浜外国人居留地に「中国料理博雅亭」をオープン。さらに20年後の明治32年(1899年)に外国との不平等な通商条約が廃止された事で、居留地以外での住居や営利活動が可能となり、日本初、横浜伊勢佐木町に移転してリニューアルオープン、この頃からシューマイは店頭販売されていたようだ。ところが創業者の不慮の事故死により、当時四男である博公氏はあの旧制一高(現東大)を中退して、若干二十歳で明治40年(1907年)に店を継ぐ事となった。

鮑博公氏は、横浜中華街物語(読売新聞社横浜支局著)で現代中華街の基礎を創り上げた七賢人の一人として紹介されており、終戦後の1946年3月には中華民国留日横浜華僑連合会が成立して初代会長になるほどの名士。また当時の雑誌、健康と料理、料理の友、主婦の友などや、昭和6年に食堂王と呼ばれた岡本正次郎氏が学園長で、現在も続く日本で初めて女性を対象とした調理教育を実施、明治15年(1882年)創業の現赤堀学園で校長を務めている赤堀旺宏氏も日本料理と支那料理の講師として参加していた、東京料理学校の講師としても活躍するほどの支那料理専門家である。日本の旬である食材を取り入れたり、冷やし中華や五目かけゴハンを考案したといわれ、シウマイでは豚肉に干し貝柱とエビを加えた焼売を大正11年(1922年)に完成、これが評判となり『博雅』の名は、さらに浸透し始める。そして後に博雅亭は大繁盛のまま後継者不在で惜しまれながら閉店する...が、松坂屋がレシピを再現させて100%出資「龍泉」を立ち上げて「名物博雅のシウマイ」として復活。さらに鮑博公氏のご息女と結婚された榊原氏が野毛で博雅茶郷がオープンしていたのだが、高島屋からの依頼で「博雅のシウマイ」として登場。一流デパートの主力商品として『博雅』の名前は横浜の地元ブランド、ご当地グルメの魁として今も記憶に残っているそうだ。現在は両ブランドとも幕を閉じたが、博雅亭→博雅茶郷→博雅のシウマイと作り続けたシウマイ職人である邑上氏を工場長として迎えたポン・コーポレーション有限会社が立ち上げた株式会社博雅がインナーネットショップを開設して販売を再開している。

★ 博雅のシウマイ → http://hakuga.net/

・・・って、長くなっっちゃったんですが、要するにシウマイは崎陽軒以前からあり、干し貝柱(干帆立貝柱)はすでに使用していた店はあったという事デス。当然、崎陽軒さん自体がそういう説明をしているのですが、崎陽軒がシウマイ発祥と思ってる方が結構いるので、そうではないという事を申し上げたかったのデス。ただし、シューマイを「シウマイ」として日本中に広めたのは崎陽軒デス。そう、雅叙園の創業者である細川力蔵氏が円卓の回転盤を初めて世に出したのではなく(イギリスに原型、松坂屋では市販品が売られていた等)、昭和の竜宮城といわれた非日常の地に訪れた人々(中国系の方々含む)が、その環境で芸術品である回転盤に魅了されて、自国に帰って作らせて「中華は円卓で回転盤」という広まりと同じようですナァ~。ちなみに現在雅叙園には修復と復刻で初期の回転盤があります。一度拝見したのですが、凄いデス、一見の価値は十分にありデス。「円卓で立ち上がって食べるのは大変だろう」とお客様を思って作らせた細川力蔵氏の回転盤付き漆塗りで彫り物も芸術的価値満載の円卓...あ、でも料理とる時は立たないと届かない...ん~と...まぁまぁ...そういう訳で、シウマイを日本中に知らしめたのは崎陽軒さんなのデス。そのネーミング、そして研究開発での着眼点は「冷めても旨い」と「一口で食べれるサイズ」、単一商品を徹底的に追及し抜いた、いや、現在も弛まぬ努力をし続けていているからこそ崎陽軒さんはスンゴいですネ~(^_-)-☆

あ、ちなみに博雅さんや鮑博公氏については興味が尽きず...だって、現在も街中華には「博雅」という屋号で店が結構あるんデス(東京駅やなんと銚子にもある!)。日本中国料理との関わり深い人物だというのは間違いありませんので、別の機会に改めマース(^_-)-☆

はい、そうデス、工場見学~♪ 通路を進むと...ロールスクリーンが下りて視聴室に早変わり(笑)。さて、震災直後にカレーライスや寿司からの再起、そして新商品の開発。街の復興とともに崎陽軒も活気づき、ついに昭和3年(1928年)に「シウマイ」が発売される。そして横浜駅が現在の場所になる再移転となるのにあわせて、借金を返済しながらも事業を拡大と設備投資。徐々に街も復興、震災時に横浜中にあった瓦礫は埋め立てに活用され、昭和5年(1930年)山下町公園として開園し、昭和15年(1935年)には復興記念横浜大博覧会が開催されるまでになった。

★ 震災復興記念、横浜大博覧会 → http://kiyoken.com/index.html

そして戦中ではあるがそういう時ほど人は日常の中の非日常を求める。現実からの逃避、楽しみを代表する旅というイベントにかかせないのが駅弁。続々と新規参入してくる業者達に後れをとるわけにはいかない、昭和18年に200坪ほどで2階建ての中華料理専門の食堂をオープンさせるのだ!


が、戦争は本格的になり食糧統制。シウマイや寿司など規制がかかり製造中止となり、雑炊食堂として営業するが...昭和20年の横浜大空襲で食堂は全焼...そして終戦。

絶望という言葉を知らない野並茂吉氏は、再度這い上がる。1946年(昭和21年) 横浜駅構内飲食店営業許可を受け、和洋喫茶「KY(KiyoukenYokohama)食堂」を立ち上げ、翌年には東口でバラック建てで営業していたストアーを、100坪ほどの二階建て食堂としてオープンさせるのだ。

戦後復興、日本全体が新しい時代に向けて活力を得る。昭和23年(1928年)株式会社崎陽軒発足、そして戦時下統制が解除されて「シウマイ」は復活する。高度成長期突入、日本始まって以来の好景気「神武景気」到来。そしてキャンペーンガールの前進、今でいうならばご当地アイドルの魁、そう『シウマイ娘』が横浜駅に現れるのだ。

「お~、これでいこう!」タバコのピースを手渡された野並茂吉氏は即座にひらめき実行に移した。容姿端麗、身長は158cm以上、しかも歩合制をプラスという条件。綺麗な姉ちゃんに「シウマイいかがですか」ってニコッとされたら買わざるを得まい、その考えは見事的中して、昭和25年(1950年)に『シウマイ娘』は登場して横浜駅の名物となる。「赤い服は恥ずかしい」「襷はイヤ」など美女軍団はワガママをいうが「これでなければ意味がない!」と押し通すオヤジパワーは半端無いですナァ~、まぁ、今なら容姿端麗でセクハラ、パワハラで身長は差別になるのかなぁ~。しかし、その後「シウマイ娘」は人気職種となり、ラジオや雑誌などで多く取り上げられるようになる。最大のキッカケは明治生まれの大正から昭和の文豪でありグルマンの獅子文六氏が毎日新聞で連載小説「やっさもっさ」で、プロ野球選手とシウマイ娘の恋愛モノで好評となり映画化。しかも主役の二人は当時話題の俳優と女優という事で、一気に知名度アップで全国区となるのデス。まぁね、実は商品がしっかりしていたからというのと、大量の注文に対しても耐えられる製造を含めた企業努力が出来たればこそ、なのでしょう。ちなみに、獅子文六氏は日本の中国料理とも関わり深い方で...崎陽軒、赤坂飯店、海員閣、そして初代の聘珍楼、そうそう銀座アスターまで出てきます。あ、興味ある方は → https://ameblo.jp/ks-management/day-20160919.html

凄いですネ~、そして快進撃は留まる事を知らずで今回のシウマイ弁当に繋がるのデス。シウマイ、そして大人気といわれている筍煮、俵型のゴハンには小梅を乗せて、鮪の照り焼き、鶏の唐揚げ、玉子焼き、昆布と生姜にアンズは箸休めや口直しに欠かせません。昭和29年(1954年)発売で昔ながらの味をそのままに、ファンを拡大しているそうデス。

そして、このお弁当を世に送り出したのは当時常務取締役で32歳だった二代目の豊氏でした。そしてガラス張りの本社ビル建設、そして東京進出を含めた販路拡大とさらに崎陽軒を大きく発展させたのは野並豊氏なのだ。

そしてヒョウタン型の醤油差し「ひょうちゃん」登場となるわけデス。そして日本初となる真空パックを開発して、さらなる販路拡大。レストラン事業本格参入となる郊外型レストランを戸塚にオープン、そして昭和50年(1975年)に今回訪れているシウマイ製造工場を建設となるのデス(平成15年リニューアル)。

工場見学はこの後、シウマイの製造工程(撮影不可)を見て、試食して終了でした。いやいや焼売、シャオマイ、しゅーまい、シウマイ。奥深しですナァ~、点心といえば日本で馴染みの深いというと「焼き餃子」というイメージが現代にはあると思いますが、実は戦後からなんですネ~。食糧難、主食不足、海外に住む日系人からのララ物資という支援から始まる便乗でのアメリカからの小麦政策による小麦製品の普及という流れですナァ~。シューマイはそれよりも以前から日本には定着していたのデス。そして北麺南飯というのが中国ではあるが、北の麺とは小麦で南はご飯を指す。ところが日本で焼売を広めたのは広東系の南側だという結果がある。北の焼売は皮が厚く生地がモチモチなのが特徴(菊花型)だが、日本では南側となるので薄い皮で包み、比較的小麦感のあるモノではない。そう小麦も使うが、米の粉などと澱粉で繋ぎとなるので、さらに薄くなるのが特徴。これは、北宋から南宋まで遡る...遷都、北の文化が南に流れて...長くなるので別の機会にいたしマスm(__)m


さて、試食の大きい四季皿のひょうちゃんに乗った崎陽軒の「シウマイ」を頂戴して、夜は崎陽軒本店で日本中国料理協会・サービス技能支部の賞味会となりマス。楽しみだなぁ~、ありがとうございました、崎陽軒さん。とても勉強になりました。これからも日本中国料理を牽引する企業として応援してマース(^_-)-☆

★ 崎陽軒・公式 → http://kiyoken.com/index.html

 

白土さ~ン家の、日々

行き当たりばったりで、日常の事を好き勝手に綴りマース(^_-)-☆